レポート第16回レタスマインドフルネスワークショップ

2020年2月1日、第16回レタスマインドフルネスワークショップが開催されました。

1月とは思えないような温かな日射しの昼下がり、こんな日に遊びに行かないでワークショップに来るのは真面目な人ばかりですね……というわけで、まずは坂井さんの受容のお話からどうぞ。

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「制御と固執の問題点」 坂井洋介

受容というのはいろんなところにあります。

マインドフルネス、禅、ヴィパッサナー……その中にあります。でも、これは瞑想の一要素で、マインドフルネス瞑想は受容だけでは成立していないというのは前回もご説明したとおりです。

それでも何度もこの受容についてお話するのは、この要素が分かりづらいからというのがあります。

瞑想でよくいわれる「あるがまま」「そのままを受け入れる」、体感しづらいですし、制御の要素と共に語られると混乱しやすいんです。

「がんばって、ありのままに受けいれるぞ!!」とか、「何が何でも、受容するぞ!」となってしまうと、どう考えても受容的ではないですよね。でも言っている本人はそのことに気づけなかったりします。

この受容を進めていって、結果として至るであろうところは「普通に生きること」と前回言いましたが、「自分で自分を苦しめなくなる」ということもできます。

同じ環境にあっても、苦しいと感じる人と楽しいと感じる人がいます。

同じことをしていても、ストレスを感じる人と感謝する人がいます。

それは受け取り方の違いですが、どんな状況であれ、そこにあって苦しみを感じない人がいるのであれば、そこで苦しんでいる人は自分で自分を苦しめているということでしょう。

自分で自分を苦しめていた人が、受容によってそこから解放されると、本当に楽になります。

ある体験があった時に、その体験そのものの上に「自分でくっつけていること」があります。このくっつけるのが制御の働きですが、これを少しずつ減らしてゆくことで「あるがままの心」「本心」(これも仮の表現ではありますが)が裸のまま見えてきます。あるいは、体験そのものが何もくっつかない状態で見えてきます。

それは完全受容とでも言える状態でしょう。何もくっつけていない体験は、只、そうあるだけです。

只、そうあるものは自己を離れて存在しているため、苦しめようがありません。

しかし、実はこうやって説明していることはぜんぶ間違っています。ズレています。

なぜなら、言葉で表現しているからです。言葉は制御しか表現できないですから。

そのため、この後、矛盾したことを言う可能性がありますが、それは許していただきたいんです。

ではワークをします。

(詳細略)

受容のワーク、やっているととりとめがないとか、落ち着かない感じがあるのは自然です。

「今」というのは変化し続けていますが、誰でもそれを「固定させてつかみたい」という欲望があります。

受容し続けることで手持ち無沙汰になり、(これでいいのかな)という気持ちには当然なります。

例えば、ワーク中に「起こることを全部受け入れるってどういうこと?」と疑問が出てくる、それが、そのまま、それです。その疑問の出ている状況を受け入れるということです。

それ以上のことをする必要がないというのが、あるがままに受けいれるということです。

このワークをしてみて「で、こうやっていって、最終的にどうなるんですか?」とか「どうすれば、さらに良くなるんですか?」「どれが正解ですか?」と聞きたくなるような人は、バランスを崩しがちです。

でも、そういう人が本当にこのワークをすると「あるがまま」の体感に近づけるし、すごく楽になります。

今やってみて「居心地が悪い」ままでいられるか。そのままでいられればOKです。

先ほど言った「自分を苦しめない」=そのままでいいよ、というのが受容です。

何かにぶつかった時に、自分が苦しまないために「何かしよう」というのが制御であり、分別です。

ここまででご質問、よろしいでしょうか?

聞けば聞くほど分からなくなる話ですが(にっこり)。

制御というのは悪いことではないんですよ。

朝目が覚めて、布団から出る。ご飯を食べる、歯を磨く。全部制御です。

制御がなくて受容だけだったら、みんな寝たきり、引きこもりになってしまいます。

私たちの生活は制御することで進んでいきます。

制御が問題なのではなく、制御が固執や歪みになってしまうことが問題です。

たとえば、目標があって、そのために制御します。テストで100点をとろう!と毎日必死に勉強して、いろんなことを我慢します。これで100点じゃなかったらどうしよう、と思うと、本番で緊張してしまって力が出せないということもありうるでしょう。

かえって、一番大切な「今ここ」での適切な制御が効かなくなってしまう。

たとえば、将来に不安があって安心したいと思う。そのために保険をかけることにする。でもその保険会社がつぶれたらどうしよう?と思って、もう一つ別の保険を掛けるとする。災害があったら、病気になったら、大恐慌が来たら?それぞれに別の保険をかけようとしても、きりがないでしょう。対策することで不安を膨らませている。

こだわる、固執することで、かえって解決から遠ざかってしまいます。

また、制御の歪みは抑圧からくるものと言ってもいいかもしれません。

たとえば、イクメンの旦那さんがいるとします。自分もいい父・夫を目指していると思っているし、子どもの相手を一生懸命にして、みんなにも「これからは男も仕事と家庭を両立して」とか良いことを言っているが、なんとなくぎこちなくて、何かの拍子に他人からは本心(子どもに対して怒りがある)が透けて見えたりする。

でも自分では全く本心を押さえつけて制御しきっているので自覚できず、他人から「本当はムカつくでしょ」と指摘されると「そんなわけないでしょう!」と怒ったりしてしまう。そういう態度で、一層本心が明らかになる。ほっぺたにくっついた汚れが自分で見えないけれど、他人からはよく見えているような感じです。

これはいろんな「こうあらねばならぬ」や「こうあるべき」を自分に強いて抑圧にまでなっている人にありがちなパターンですね。

一方、(自分は子供に怒りを抱くことがある)と、自分の心を理解しているイクメンの旦那さんがいるとします。行動としては先の例のパパとまったく同じです、でも何かが「さわやか」です。

自分の子供に対する怒りが分かっているから行動にぎこちなさがないし、「本当はムカつくでしょ」と指摘されたときにも「実はそうなんですよ」と言うことさえ出来ます。

受容がないと、固執や歪みによってかえってうまく制御できなくなってしまう。

受容が分かると、逆に制御がうまくいく。

ところで、今「制御過剰が極まった時に(ブレイクスルー的に)受容が分かるということがあるのでは?」というご質問がありましたが、そのためには徳=善業が必要なのではないかと私は思います。

以前、「自分が安心したいならば、他人を安心させてあげるとよい」というお話をしました。

「業(カルマ)」というと宗教的な、自分ではどうしようもないものというイメージをお持ちかもしれませんが、本当はこれから変化させていくことが出来るものです。

私は因果論、原因と結果の法則を信じています。

完全に私見ですが、徳がないと現象から学べないが、徳があると一見自分に都合が悪い現象からも学べるのではないかと思っています。

受容は自分の心に起きた良いものを自然に表現できるということで、実は「固執・歪み」をほどいてゆく鍵になるのが受容ではないかと思います。

受容が腑に落ちてくると、相当楽になります。

なんだかんだで、日本人は特に、みんな制御過剰で暮らしているんですよ。

制御がゼロの人はいなくて、制御の力が軽い人でも固執や歪みを持っていたりします。それに自分自身で気づくのは難しいから、どんな人でも受容という要素について知っていてほしいんです。

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「水のように生きる」 大友風太郎

私たちはサマタ瞑想(集中力の瞑想)とヴィパッサナー瞑想(智慧の瞑想)を分けて考えていますが、この二つは区別のしようがない部分も大きいんです。

例えばろうそくの炎を見つめ続けるトラタク瞑想と、おなかの膨らみ縮みを観察し続けるマハーシ式の瞑想では、やっていることとしてはほぼ同じ作業です。

しかし、その作業を通じてどこに行きたいかという、目的が違う。

自分の欠点が盲点に入っていると、自分でそれに気づくのは困難です。瞑想の力でそれに気づく。サマタでもそれができる人はいますし、ヴィパッサナーをやっていても気づかない人もいますが、しかしヴィパッサナー瞑想をやっている人の方が気づきやすい。

「心の動体視力」が上がってくる、とわたしは言っていますが、自分の心の状態にきめ細かく気づいてくるんですね。

普通の人はいつでも自分の本心から目をそらして生きています。

その本心、盲点に気づくにはどうすればいいのか。

これを見るために必要なのは、ただ「それたら戻ってくる」の繰り返しです。

武術で、ごく軽い力でふわっと繰り出された一撃が、最も相手にダメージを与えることがよくあります。

それは繰り出す側が闘志や勝ち負けへの執着から自由だから出せるものでしょう。始めから「ふわっとした一撃」を目指してできることではなく、ただ努力し続けた人だけができることです。

難しいのは、努力しつづければ必ず実るとも言えないところですが……。

それでも、何かを身につけるには三度の飯を忘れて「虫になって」やる、そんな夢中になってやる時期が必要で、それが善業=徳になると言えるんじゃないでしょうか。

じゃ徳がなきゃ話は終わりかというと、それもまたそうでもなくてね。

何でしょう?

分かった人~?

そう、子供向けテレビ番組の戦隊モノって、こういう色分けですよね。

私は子供の頃『ゴレンジャー』とか『ガッチャマン』が大好きでした。今も好きです。

五人の役割って、番組が変わってもだいたいこんな感じですよね。

赤:リーダーでヒーロー。欠点がない。

青:能力が高いが影があり、協調性が少なくてニヒル。

桃:女性。可愛らしさやお色気。

緑:弱点があって引き立て役。

黄:陽気で力持ち

自分たちは「赤」、全部手に入っているようなヒーローを狙ってしまうんですけど、でも実は「青」が一番人気があるって知ってました?

それに5人それぞれの個性が合わさってのチーム、番組なんだし、誰かがいなくなったらストーリーにならなくなるでしょ。

同じように、一人の中にいろんなキャラクターがあっていいんですよ。

一人の中に一つの個性しかないなんてありえないし、それを無理に一つの完璧な何かに押し込めようとするのは、受容性が低くなっているということなんですよ。

どんな思考が出てきてもそれは次々と変化していくものだし、一つの思考に固執しているよりいいじゃないですか。

さて今日は「水のように生きる」というタイトルをつけてみましたが、水は盆に入れれば盆の形に、瓶に入れれば瓶の形になります。

お正月休みにマンガ『バガボンド』を一気に読みました。吉川英治の『宮本武蔵』が原作ですね。これは瞑想の本だと思いました。

その中のエピソードに、武蔵が水害に悩む百姓のために水路を作るというのがあったんですよ。でもうまくいかなくて、溢れていく水を見て武蔵が「水に意思はない」と発見するくだりがあった。

先日自動車を運転していて、割り込みをされました。後ろから来た車がちょっと待てば安全に行ける所を、ほんの少しの隙間を狙って先に行こうとして、私の車の前に割り込んできたんですね。

それを見て、『バガボンド』のあの場面を思い出した。

世間の人はみんな、水みたいに生きているんです。

溢れて流れる水は、杭にあって回りこんだり、岸にぶつかって波を立てたり、落差に出会って滝になって落下する。出会ったもののなすがまま、意志はないんです。

世間の人も、外的要因に揺らされるがままに生きています。

いやな事に出会えば腹を立てて、欲しいものに出会えば掴んで、何もない時はボーっとして生きています。

反射、反応のなすがままに生きています。

ブッダの言葉、『ダンマパダ』にこういう一節があります。

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怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮していこう。

悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。

貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、 貪らないで暮そう。

われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。

(ダンマパダ第十五章)中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫

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気づきがある生活って、あるじゃないですか。

30分の瞑想をしていて29分59秒妄想していても、最後の瞬間「あ、妄想していた」があれば、それは気づいている生活ってことです。

気づけば、流されるままじゃなくて選べる。

ただ、気付いた後に何を選ぶかという問題はありますけどね。

気づいて、(よし、ここは安全に)と一台待てるか、気づいても(でも関係ねえや、俺は早く行きたいんだよ)と割り込むか。欲望に流されたら、やっぱり水みたいに生きていることになります。

気づきがある生活を始めた私たちは、武蔵が杭を打ち石を運んで水路を作ったように、自分を運ぶ「道」を考えて作っていきます。

その道がどんなものかは、人によってやり方も目的地も様々でしょう。

その道を作るために、荒れ地を耕すんですよ。収穫があるまでね。

さっき言った、いろんな自分の中の要素を見て、気に入らないものがあっても腐らず、包括して見てゆく。

そしていろんなやり方で自分を耕していく。

一人でやるんじゃなくて、いろんな会に行って、いろんな人にあって「みんなそうだよ」とか、アドバイスをもらいながら工夫してやっていくと良いですね。

あまり「修行だ!」と思いつめるのではなくて、ゲームとして楽しんで続けていく工夫をするのも大切です。

ここにいる人たちは皆「始めてしまった人たち」なんで、どうしても最後までいってほしいし、暗くならずに途中の道も楽しんでいってほしいんです。

では何かご質問がありましたら。

「【質問】瞑想が30分しかできないんです」

「しか」!(笑)

30分「しか」できないっていう言葉にもう、何か判断がくっついてますよね。分かるかな?

他の何かと比べちゃってるからこう考えるんだと気づいてほしいです。

15分瞑想している人よりもできている、というと「慢」になってしまうから、30分瞑想できる私は恵まれていてうれしいと考えることができる。

2時間瞑想している人を見て、妬んだりコンプレックスを感じるのではなく、頑張ってくださいと応援したり、どうしたらできるのか学ばせてくださいと考えることもできる。

もちろん「くやしい」という気持ちが自分にあることは、そのままに認めてね。

苦しいことが楽になるのは良いことなんだけれど、それだけにフォーカスすると間違います。

だって、歳はとるしモノは壊れるし、みんな死んじゃうし。いいことばっかり追いかけても、一つも完璧なものはない。

でも、その完璧じゃなさ、望まない変化、そういうものと一緒にいようと思えれば楽になる。

でもね(ニヤリ)、楽になりたいために一緒にいようとすると、それは「楽を求めてる」ってことだから苦しくなる。

それまで荒れた生活をしていた人が瞑想するようになって、心が静かになればすごく大きな変化だけれど、それでもそのままずーっと静かで幸せかというと、瞑想や生活が頭打ちになったり、なんだかうまくいかなくなったりもします。時間をかければ右肩上がりに行くかといえば、そうではない。

他人と比べるなというのは無理で、比べてしまう心の動きは当たり前に起きることです。

だから、自分が他人と比べていることに気付きながら、その時に自分にできることを続けていくことです。

ただし、最善を尽くすという「最善」は自分にも他人にも決められないことで(逆に「よし、それが最善だ」とか「それは最善じゃない」と言う他人がそばにいると、とても危ないです)、これは自分自身に聴き続けるしかないんじゃないか。

自分が何をどう見ているか、それをきめ細かく見てゆくしかない。それも今、この時点でどうかを見るしかない。昨日の自分と比べるのでもなく、他人と比べるのでもなく。

瞑想のメソッドを混ぜると危ないです。

まず一つのやり方で、セオリー通りに経験を積み上げていった先に動体視力が上がってくる。

メソッドを混ぜてやると、あれこれと落ち着かなくやっているだけで盲点が見えてないままということがあります。

そして上座仏教がなぜ慈悲の瞑想や善行を勧めるかというと、心の視力が上がって自分の心をしっかりと見つめたときに慈悲や善行できれいにしておかないとショックを受けてしまうし、ことによると心の事故が起きてしまうからです。

我々は自分の持っていないものを欲しがるんですけど、ゲームのようなもので手持ちのカードを活かしてどう遊ぶか工夫してみてください。

「【質問】その自分の心というのは、見ようとして見えるものなんでしょうか」

見ようとして見えたら、それはミスリードです。

コツコツ積み重ねていって、「見えてしまった」時とは、衝撃度が違います。

(大友講師が経験したエピソード。詳細略)

……そのときに、自らの弱さを認めたくなくて荒々しく行動していたことを、初めてそのままに認めることができました。

すると、そういう自分が死ぬんです。

それまでの「自分」が死ぬんだから、恐くて仕方がない。でも、見るべきときに否応なく「見えてしまった」。

「自分は弱い人間だった」そんなことは、自分以外の人には皆分かっていたことですが。

こういう体験は瞑想をしない普通の人でもあるでしょうが、瞑想の時のように自分に突きつけられるのでないと余力で覆い隠せてしまう。

「見えてしまった」時に、そこから逃げずにきちんと向き合うために普段から必要なのが、慈悲、善行、そして決意だと思います。

瞑想を始めてみたけど、うまくいかない。それでいいです。

せっかく始めたからうまくやろうという努力は、良いことだし大切です。

でも不条理でうまくいかないこともあって、それは変にまとめようとしないでそのままにしておく。よくないんだけれど、それでいいです。

瞑想をして、身の回りの現象が円滑になり合理的に行動できるようになるというのは、スーパーマンになることじゃないです。

瞑想できている人でも、画びょうを踏む。

でも「誰だー、ここに画びょう置いたのは!!」と怒鳴ったりしない。

ただ痛みがあって、画びょうを抜いて、手当てをする。それが円滑で合理的な対処です。

瞑想が進むと、何かすごいことが起きるって妄想しちゃうんですけどね。

(瞑想実践)

これから寒くなるので、風邪に気をつけてください。

瞑想していれば風邪ひかない…なんてことはなくて、風邪もひくし、寝込みます。

でも熱出して寝ている時は瞑想のすごいチャンスです。どう苦しいのか、何が体の苦しみを増幅しているのか観察してみてください。

良寛さんが「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候(災難に遭うタイミングでは災難に遭い、死ぬべきときには死ぬのが良い。じたばたせずにその現象にそのまま出会うことが、余計な苦しみを避けるうまいやり方だ)」と言っています。

風邪をひいた方がいいって言ってるんじゃないんですよ。

人間なら病気をしたり、不調になったりすることは避けられないことです。

不調になったときの観察のポイントは、受の観察です。

感受には苦受・楽受・不苦不楽受がありますが、不調の時には普段目が行かない不苦不楽受のありがたさが分かります。それはすごく大事なことです。

瞑想をやっていくと、超人になるとかすごい能力が出るんじゃなくて、きちんと普通にできるようになる。

ずるいことや悪いことをしなくても普通にやっていけると分かるのが、瞑想の利点だと私は思っています。

精一杯、無理なくやっていきましょう。

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レタスでは毎月マインドフルネスのワークショップを開催しています。

https://mindfullettuce.amebaownd.com/

https://twitter.com/PZ1hAgyYgpe1AzI


3月は7日土曜日、東京都中央区人形町で開催予定です。

ご参加お待ちしております!



レタス

レタスはマインドフルネスを中心に、様々な心理療法、瞑想法、先人の智慧を通じて自分自身や自分の経験する世界をあるがままに受容することをテーマにしています。 また、そのことに関係する技術や考え方を普及していくことを目的としたグループです。

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