レポート第15回レタスマインドフルネスワークショップ
2020年1月13日、第15回レタスマインドフルネスワークショップが人形町で開催されました。
今回は大友講師欠席のため、坂井講師が中心になって進行しました。
お話の中からかいつまんでご紹介いたします。
「受容と葛藤」坂井洋介
またしても、受容についてお話したいと思います。
繰り返しますが、受容は瞑想の一部です。一つのファクターに過ぎないので、受容だけで瞑想の全体は計れません。
しかし受容というのは私の人生にとても大きなインパクトを与えた要素なんです。
それまでの自分の性格は神経症的で、受容のまったく逆でした。
私の強迫神経症が治ったのは、真実としてはマインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想によるものというのが正しいでしょうが、自分の実感として「受容」によって救われた部分が大きいと感じ、受容について沢山の人に伝えたいと思っています。
また、マインドフルネス瞑想の中でも、この「受容」というファクターは理解し難いものです。それは対照的な要素である制御と混在して説明されるためであると考えています。今日は出来るだけ制御と切り離して説明してみたいと思います。
受容はあるがままの受け入れです。英語だと”Let it be.”、そのまま、あるがままにしておく。
なにを受け入れるのかというと、「今」を受け入れることです。
ここでのポイントは「今に集中しろとは言っていない」ということです。
集中が強くなると、それは受容の反対の「制御」になってしまうんですね。だから受容に関する話では「今に集中して」という表現にはならないのです。ただし、瞑想の時にこういう表現をすることはあります。
そして受容を学ぶことの目的は、ずばり「ふつうに生きる」ことです。
すでに受容することができている方は、え?何それ?と思われたでしょう。
病んでいるとき、なんだか生きづらいと感じる時は受容と制御のバランスが悪いのです。それを整えることによって、日常が生きやすくなる。
そして、すでにバランスが整っている人が受容を学ぶと、行為のクオリティが向上する可能性があるといっておきます。
ではワークをします(省略)。
(ワーク後の質疑応答で)
そう、その通り、受容するというのはふわふわと漂っている状態なんです。
固着しない、一つ所に錨を下ろさない。
なぜ漂ってしまうのか?
現象が動いてしまっているからです。
全ての現象はつねに動いています。だから「今」にピタッと合わせていると、ふわふわと漂ってしまうのです。
私たちはこういう感覚に耐えられなくて、どこかにしっかりと腰を下ろしたくなるんです。
でも「今」を固定することはできません。
「今」は生涯一度限りです。
さっきから鳴っているこの音(空調のカタカタいう音)も、同じ音が繰り返されているのではなく、今!鳴っているこの瞬間の音は、もう二度と鳴りません。
私たちは同じ瞬間を二度経験することは、決してできないのです。
逆に、制御とは何でしょうか。
制御とは、自我(エゴ)が自分の状態を思い通りにしようとすることです。「~すべき」という思い、意志、願い、欲と言い換えられます。
実は、受容は「制御をやめましょう」ということなので、否定形でしか語れません。
制御しようとすることが葛藤の始まりです。
「これが気に入らない」「こうじゃなければいいのに!」「もっとこうしたい」と、好みではない自分・他人・環境・感情・心……を変えようとする。それが制御です。
でも、それらが自分の思うように変えられなかった、変わってくれなかったら、葛藤が起きます。ストレスになります。
受容して、制御をやめていくことで、葛藤が消え、ストレスが無くなります。
受容を進めていくと、心が解放され、とても楽になります。
神経症が治ったといいましたが、症状がない健康な人でも、誰でも少しずつとらわれを持っています。それがゆるむと、とても楽になります。「ふつうに生きる」という言葉で私が言いたいのは、そういうことです。
ではどうするのがいいのかというと、普段のありのままを受け入れていくということです。
注意していただきたいのは、「解決する」のとは違うということ。そのままでいい、ということなんです。
いやだ、困る、不安だということを、工夫してどうにかして無くす「のではなく」、そのまま受け入れっ放しにする。どうあってもいいのだから、判断しない。
いやなら、いやなままでいる。
こうやっていって制御のエネルギーがなくなってゆくと何が起きるかというと、自我(エゴ)が幻想だと分かります。現象や経験はエゴの好き勝手に出来ることではなく、多くの条件と関係の中で、それそのものの事情で立ち現れてくるものです。
なにかを変えたいエネルギーを出しているのが自我(エゴ)ですから、受容によってそれを薄めてゆくと、自我の実感も薄めてゆくことができます。
この後ワーク(省略)
(ワーク後の質疑より)
受容のワーク中に「こうやっていていいのかな?」と思ってしまうという意見、それでいいんです。そうすることが、今の状態と共にいることです。「これでいいのかな?他のやり方にした方がいいのかな?」というままにやっていくのが受容です。
また、日常の中で「不完全な自分をそのまま受容してしまうとまずいんじゃないか」という意見がありました。
受容には何段階かあります。怒りを例にとると、このようになります。
初段の受け入れ…相手を受け入れる
二段の受け入れ…怒る自分を受け入れる
三段の受け入れ…相手を責める(怒りを言葉で伝える)自分を受け入れる
この中で、三段目の行動をする自分を受け入れてしまったら、だめなんじゃないのか?ということですね。
しかし場合によって、たとえば自分が壊れそうだというような場合にはありえますし(もちろん、暴力を振るうというのはいけません。論外です)、そこはケースバイケース、一般論としては言えません。
でも「もうあいつに何を言ってもいい!そういう自分を許す!」というぐらいに自分を許せると……内側の許しと外側の許しは比例する傾向がありますから、相手を許すことができてしまったりします。(もちろん、そうでない場合もあります。)
やってはいけないことをする許しを先に自分に出してしまったので、相手を許せてしまうということが起きたりします。
それから、受容の大切さをお話していますが、制御は人間にとって必要なことです。生活すること自体が制御の連続ですから。
もとから受容性が高い人はいますが、度が過ぎるといいかげん、向上心がないといった欠点になって現れることもあります。
制御は必要です。でも土台に受容の理解があるともっと良いということです。
あるいは制御が問題なのではなく、制御が固執になることが問題なのだ、とも言えます。その固執を溶かすものが受容であるということです。
「制御する自分(そして、うまく制御できない自分)を許してあげよう」という受容性の理解が内面にあると、こじれづらいです。
自分への受容がないと、倒れちゃう人もいます。
例えば仕事に行きたくない時に、休んでしまった。でもそれはしょうがないと受け止められればいいけれど、行きたくない、でも休んではいけない、という葛藤を抱え込んでどんどん苦しくなってしまう。
どんな行動をしていても、そこに受容があれば外から見て同じでも、内面的に違いが出てきます。
それに、土台に受容があると先ほど言ったように固着がないから、変化のスピードが上がります。
こだわりがあるとそちらにエネルギーを取られて、現実の、今の変化がなかなか受け入れられなくて、対応が遅くなります。
「今」を受け入れられれば、何が起きてもそれに対応していける。そのためにかえって集中力(≒制御)のクオリティがあがります。
バランスがいい人でも受容を意識したほうが仕事の質が上がる、と言ったのはこういうことです。
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レタスは毎月一回、ワークショップを開催しています。
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次回もお楽しみに。
(この項終わり)
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