レポート第14回レタスマインドフルネスワークショップ

レタスの第14回マインドフルネスワークショップが2019年12月15日、明石町区民館で開催されました。

講師のお話の中からいくつかの話題をピックアップしてお届けします。


「エゴと受容性・制御性」坂井洋介


受容性と制御性という、何度もお話していることを中心に今日もお話してみます。

この「受容と制御」をキーワードにすると、気づきの瞑想の理論というか構造が分かりやすくなるんじゃないかとわたしは思っています。


気づきの瞑想や坐禅でよく使われるフレーズ「あるがまま」とか「そのままにしておく」が分かりづらい、ということがあります。

これは受容性を表す言葉ですが、瞑想に限らずテクニックやメソッドというのは何かを「する」ためのもので、つまりはコントロール、制御の方法なんですね。だから受容という本来「やり方」ではないものをテクニックとして説明されると混乱してしまいがちです。

受容とは受け入れること。起きてくることに抵抗せずに、そのまま受け止めてゆくことです。

制御とはこちらから(自他に)力を加えて、求める方向に変えてゆくことです。

どちらが優れているということではなく、人はこの二つのやりかたを使い分けて生きていますし、瞑想も最終的にはこの二つのバランスが大切になってくるでしょう。


そして今日のテーマの「エゴ(自我)」ですが、制御性の半分はエゴと関わっています。

そのままでは自分にとって不都合・不愉快なことを変えたいというのが制御の動機である時、制御することでエゴが強くなってしまうことがあります。

エゴと逆方向の制御ももちろんあります。もっと仲良くなりたい、みんなで幸せになりたい、もっと社会をよくしたいというような。

しかし、現代社会で求められている制御はほとんどが勤勉に働くとか能力を高める、他人に気に入られる、そうやって自分の利益を大きくしてこうという、エゴを肥大化させる方向ですよね。

その時、私たちは受容性をもっと育てることで、エゴから離れていけるのではないでしょうか。


気に入らない環境や、自分の状況を受け入れる力は、そのままどんな場所でもゆうゆうと生きていける力となりえます。

実際に受容性を体感するワークをしてみましょう。これらは瞑想とは言えません、しかし、その重要な準備になります。

(途中いくつかのワークを行う)


これまで受容性が高い人には、わざわざ受容性の大切さを説くということをしなかったんです。でもこれからはその人の性質によらず伝えていくことが大切ではないかとおもっています。

というのも、受容性がある人でも、大変なとき(トラブルに見舞われたとか、強いストレスがかかる時に)には制御性が強くなってしまうことがありますから。


全ての現象を受容してゆく、というとすごいことのように聞こえますが、「まあ、しゃあないな」と受け止めていく感じですね。

しかしその感覚を知っていると、病気や事故や、自分ではどうしようもない災難に遭ったとき、ふっと「楽」になることがあります。どうしようもないことをどうにかしたいという葛藤を溶かしてゆく、一つのエッセンスが「受容」。

これは「我慢」ではないんです。本当に受け入れて「ただ、そうある」と見る。

自分が介在できないところで万物が起きている。自分はただ立ち会っているだけ……。

同時に、自分は機能として部分としてその現象の一部でもある……。

うーん、これは良い説明じゃないですね。受容は言葉で言い表しづらい。

でもこういう瞬間は必ずあります。


受容は瞑想そのものではありませんが、瞑想の中にある要素ではあるんです。例えていうなら、自転車競技とスクワットのような。足の筋力だけで自転車は速くならないけれど、足の筋肉は不可欠であるみたいな。

完全に受容側から見ると、「悟るために瞑想するぞ!」じゃなくて、「なんのために坐るの?」「坐るためだよ」となってくる。

なにか目標を立てて瞑想しているときにはわからない何かが、受容の中にあります。こういう感覚になじんでくると、さきほど申し上げた「人生での、いざという時」に効用があります。しかしこれもまた瞑想効果の「一部」にすぎません。

「どうすれば手に入るんですか?」「手に入れようとするのをやめたときですよ」という不可思議な感覚です。

しかし受容が深まってくると、自分が効果を求めて何かすることも、また許せる感じになってくるんです。

こうやって説明していると、どんどんとりとめがなくなってきます。

言葉はlogosであり、分断であり制御ですから、受容を言葉で表現しようとすることに無理がありますね。

究極は言葉の外で伝えるしかないものかもしれません。

(この後ワーク実践)


********


「運が良いということ」大友風太郎


(質問に答えて)

「自分のこういうところが嫌い」っていう人は自分が病気だってわかっているんだからあとは治すだけで、もう問題の半分は解決しています。

腹をくくって治そうとしはじめると、いろんなことが起きてきます。いいことも悪いこともあると思いますが、それも自分に与えられた教科書と思って、誠実に、やっていってください。


さて今日は「運がいいということ」って話なんですが、皆さんにとって「運がいいこと」ってどういうことでしょう。

確率の低いことが起きる。

自分の欲しいものが来る。

自分にとって有利な状況になる。

災難を逃れる。

いやなものからうまく逃れられる。

こんな感じでしょうか?


私も運についてよく考えるんです。

瞑想していると物事がうまくいく、現象が円滑になるという話はよく聞きます。

瞑想を始めることによってその人の行動が変わりますし、行動が変われば起きてくる現象は当然変わりますよね。

特に仏教的なことを同時に勉強したりすると、「気づき」だけじゃなく慈悲の心とか布施の行動をとるというふうに自分のアプローチを変えますから、結果が変わってくるのは当然です。


逆に、円滑なら運がいいんでしょうか?

私たちはいつも、気持ちよさを求めています。

気持ちいい、美味しい、嬉しい、得した、認められた、勝った……。

欲しいものが来ると、運がいいと思う。


私は「塞翁が馬」の話が好きです。

皆さんご存知かと思いますが、中国の話です。

塞じいさんの馬が逃げた。みんなが「気の毒に」というけど、爺さんは「いや、わからんよ」と澄ましている。

そうしたら馬が仲間を連れて戻ってきた。財産が増えたからみんなが「うらやましい」というけど、爺さんは「いや、わからんよ」と澄ましている。

そうするうちに馬を調教していた息子が落馬して足を折ってしまった。みんなは「気の毒に」というけど、爺さんは「いや、わからんよ」と澄ましている。

そして戦争が起きたときに、息子は体が不自由だから徴兵されなかった。多くの男たちが戦死したが、塞翁親子は命拾いをした。

(出典『淮南子』人間訓より  http://chugokugo-script.net/koji/saiougauma.html)

この爺さんの「いや、分からんよ」というスタンスが好きなんですよ。


私は昔からすごく幸運だったことも多いんですが、他人から「災難だね」と言われるような体験も多くて、でもそういう「災難」から学ぶことも多かったんです。

瞑想や仏教だけじゃなくて、武道やっている人は運が良くなるとかいわれます。確かに体を使って感覚が良くなると、ケガや事故から逃れられそうです。でも仮にケガをしたとしても、そこから学んで「結果として学べたんだから、自分は運がいい」と思える人が本当に「運がいい人」じゃないかとわたしは思うんです。

アファメーションで「私は運がいい!」とばかり言っていても、無常のこの世の中では欲しいことばかり起きてくれない。その中で「都合のいいことだけが起きて欲しい」としがみついているのは、むしろ智慧がない。

求めていない事が起きてきても「私は運がいい」と思える人の方が、全体的に見てうまくいっている気がします。


ミスが許されない仕事をしています(人命はかかっていませんが)。

いつも失敗したくないと思っていますが、でもそれだけだと自分の都合に「しがみついている」ことになる。

みんなに迷惑をかけたくないから、自分とみんなの都合がうまくいくように祈る。これは「慈悲の瞑想」ですね。


もし失敗してしまったら、迷惑をかけた人に謝って、できる限りリカバリーして、その後の作業の改善に活かす。最終的には失敗を取り返して再発を予防する智慧が出た、だから「運がいい」と前向きに考える。

坂井さんが以前ワークとしてやった「それは良かったねゲーム」、あんな感じですね。

(※「それは良かったねゲーム」…何かが起きたとき、まず(それは良かったね)と内語してから、よかった理由を探す。悲観、怒り、不安などの強い認知を変えるのに有効なゲーム。自分にとって都合の悪いことが起きても、必ず「よかった」面を探す訓練)


あせらず一手一手を気付いてやる。そうすれば必ず「まにあう」。

ヴィパッサナー瞑想は、何か起きたときに自分がそれをどう受け止めているかをあるがままに観察する、これは先ほどの坂井さんのお話の「受容」ともつながっていますね。

人間って全員、ブサイクで子どもで下品で……でもそれを自覚することが大事で、そのことに気付いていればもう大丈夫です。

自分の問題に気づいて「乗り越えよう」と思った瞬間からは、後戻りできなくて大変です。これは私自身もそうで、(気づかなかった方が楽だったなー)って思うこともあると思います。

しかし踏み出したからには最後まで頑張ってほしいし、そういう人を私は応援しています。


一つだけ言えるのは、「大丈夫」。

ビックリするくらい大丈夫です。

不安になったら、そのままそれを観てください。

いま出来ないことがあったら、変なところで句読点を打ってまとめてしまったりせずに、そのまま棚に置いておきましょう。

「忍辱は最上の修行である」っていうブッダの言葉があります。

我慢は苦行ですけど、「すぐに解決したい、何とかしてしまいたい」そういうところを(変にいじりまわさず、またあきらめずに)そのままにしておくのが本当の忍耐です。


「【質問】でも、このまま年を取って、何もわからないままに死ぬのかと思うとすごく不安です。」

その発想は強烈な「無知・無明」だから、今すぐやめてください。

それは無常が分かっていない。

私たちは今すぐ死ぬかもしれません。

でも、今死ぬとしたら、今までの人生で一番修行した状態で死ねます。

ご質問の発想は「この先、明日も明後日も、10年後も20年後も生きてる……」って前提ですけど、それは無知なのでやめてください。

すみません、語調が強いですね。

こうなっちゃうのは、私も同じ発想をよくやってしまうからなんです(てへぺろ)。

明日はどうしよう、この先はどうなるだろう……よく考えちゃうんですけど、それは考えても意味がないんですよ。

今ここの状態にベストを尽くして対処していれば、いつも「運がいい」し、大丈夫なんですよ。


********


レタスは毎月一回、ワークショップを行っています。

HP、ツイッターなどで告知しております。

ご参加お待ちしております!



レタス

レタスはマインドフルネスを中心に、様々な心理療法、瞑想法、先人の智慧を通じて自分自身や自分の経験する世界をあるがままに受容することをテーマにしています。 また、そのことに関係する技術や考え方を普及していくことを目的としたグループです。

0コメント

  • 1000 / 1000